「子どもをいだく喜びにひたってほしい」三砂ちづる

あーる

2015年09月29日 09:42

子どもが小さい頃はとても大変でした。

乳児期は夜泣きの程度や長さが尋常ではなく、階上の住人からの苦情も度重なり

自分も心身共にフラフラの中、引っ越しをしました。



幼児期は同世代の子のお遊びの場でのトラブルも多く、いたたまれなくなり、

そのうち近くの小さな公園で親子2人で過ごすようになりました。

検診では引っかかることもなかったので、まさか発達の偏りを持つ子とは

夢にも思いませんでした。

出産の1年ほど前に越してきたばかりの土地で、近くに頼れる身内もおらず

実母はもう何年も前に亡くなっているので、相談できる人もなく

何をどうしたら良いのかわからないまま、苦しい時期を過ごしていました。



それでも、今思えば子どもが「小さい人」だった頃は

ぷっくりした体や顔や手足を、愛らしいと感じていつくしんでいたような気がします。

私とは目をあまり合わせない子だったけれど、

小さい虫を柔らかな指先でつまんでは

何やらブーブー言っていたあの時代を見ていたからこそ、

今では大人並みにでっかくなった我が子の中にも

「可愛らしい子ども」を感じることができるのかもしれません。

そんな事を考えさせてくれた詩です。

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「子どもをいだく喜びにひたってほしい」 三砂ちづる

いまあなたは、とてもとても忙しいだろうと思う。
慣れない幼い子どもとの日々に翻弄され、やってもやっても、やるべきことが終わらない家の中のあれこれにため息をつき、まして外で仕事のひとつでもしていれば、なんで私だけがこんなにがんばらなきゃいけないのよ、と腹のひとつも立ち、穏やかにぐっすりと眠ってとろとろと夢を見る、ということ自体がどこか遠い世界の出来事のように思うのかもしれない。

おむつもかえなきゃいけないし、おっぱいもあげなきゃいけないし、ちょっと大きくなってきたら「ママ、おしっこ」と起きてくるし。
ああ、私は毎日忙しい。
ゆっくり夢を見ること自体が、「夢」。
ゆっくり眠りたいだけ眠った、なんて、いったいいつのことだったかしら。

残念なことに、というか幸いなことに、というか、時間というものはゆくりなく過ぎ、いま、あなたがやっているようなことはあと数年と続かない。

彼らは学校に行くようになり、あなたの知らないところであなたの知らないことをする時間がふえ、あなたは夜はもう少しよく眠ることができるようになる。
そうすると、朝早くから起きて弁当のひとつも作り、子どもの外のつきあいの後始末などもしなければならなくなってくるけれど。つまりはフェイズが移る。

私はもう50をすぎている。
2人いる子どもは青年になり、文字どおり毎日どこで何をしているのやら。
見上げるような青年になって、私の知らない彼らの日常はまぶしい。
この人たちは、もう私の「手の内」では生きていないのだ。

ときおり、私は夢を見る。
夢の中には子どもたち2人がよく出てくる。
その彼らは、けっしていまのような「男に育った」彼らではない。夢に出てくるのは、幼い彼らだ。

お話ができて、自分のひざにのってくれるくらいの子どもである彼ら。
おそらくあと50年生きても、夢に出てくる私の子どもは、この大きさであるに違いない。
あのね、ママ、あのね、と、とても高い声で私を見上げ、「つまらないこと」をいちいち聞きにきたリ、報告したりする息子たち。
私がしゃがまないと、彼らの視線とは合わず、抱きしめれば、腕に足り、抱き上げれば、そのまま移動できる重さ。私の手の届くところにいる彼ら。

おかあさん、いまあなたのひざにいるお子さんのなんといとおしいことか。
母として、いちばんよい時期。いちばん印象に残る時期。
あなたの子どもはいつもその大きさで、あなたの夢の中で位置をしめ続ける。
あなたが人生でつらいことがあったとき、あなたの子どもたちは、そのような大きさであなたの夢にあらわれる。
それが現実と交錯するいまこそが、あなたの幸いでなくてなんであろうか。
涙ぐむようにして、幼い子どもをかきいだく喜びにひたってほしい。
それはひとときの至福であり、長き人生のうちで一瞬にして失われる、人生の最も美しい時間だからである。


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